株式会社JEXS
 ◆ポスト成果主義の人事管理と目標管理の転換

第1節 問題意識

成果主義は能力主義に代わるものとして90年代後半からメディアに登場してきた。新自由主義経済を煽る一部の経済紙などでは、成果主義は好ましいものとして盛んに喧伝された。このような成果主義は新自由主義と軌を一にしたもので、パラレルなものだと言ってよい。ニューエコノミーを唱導する企業の多くは企業内部で熱心な成果主義人事改革を進めた。その1つの例がキャノン電子であり、富士通である。成果主義に取り組んだ企業は多い。

今日、新自由主義、すなわち規制緩和など経済改革における市場原理万能主義が席巻しているが、その限界も同時に認識されつつある 。大企業を中心にグローバル化が進み、中国などアジアからの追撃や国際競争の激化が強調され、「高コスト構造の是正」は避けられないという焦燥感が企業に蔓延してきている 。規制撤廃を是とする経済改革路線は解雇を自由化し雇用の流動化を大胆に推し進めるべきだとし、企業内部の人事システムにも大きな影響を及ぼしている 。成果主義はこうした動向を受けて制度的に市場原理主義を具現する取り組みであり、新自由主義による組織人事管理の態様と捉えることができるだろう。

新自由主義による経済改革、規制緩和の普及が一巡し、一方でその限界と綻びが指摘される今日、成果主義や、それによる人事マネジメントが果たして手放しに肯定されていいのか、冷静に振り返ってみる必要があるだろう。


第2節 新自由主義と人事管理システム

1990年代後半以降、日本の人事管理においては成果主義が唱えられてきた。成果主義とは一般に処遇格差を拡大することによって組織を活性化させ、組織構成員の職務満足を改善し業績向上を目指す人事改革であると考えられている。この動きと符合するものとして目標管理は重要な位置にあると思われる。なぜなら、目標管理はこれまでにも不況になるたびに業績向上の手がかりになる手法として日本企業に注目されてきたが、バブル崩壊後の不況の長期化で成果主義を背景に、重要な人事管理制度として位置付けられるようになったからである。ところが、目標管理は不況に喘ぐ企業にとって起死回生の策として期待を込めて導入されながら、逆に成果主義の矛盾を露呈する中心に位置するものとなっている。

本稿では、成果主義をめぐる問題を最初に検討し、さらに成果主義と目標管理の関係を整理し、目標管理が想定するマネジメント「思想」が根本のところで矛盾していることについて考察を進める。そのため、90年代後半以降の成果主義の流れを振り返り、また日本における目標管理の展開、さらに目標管理の背景にあるマネジメント「思想」の内容、そして米国における目標管理の実務上の位置付けを参考に、日本の組織人事管理における今後のあり方について展望する。


第3節 成果主義に対する多くの批判とその論拠

成果主義をめぐっては批判が多い 。成果主義による人事改革を早くから導入した事例として富士通があるが、最近ではその業績悪化が皮肉にも高業績を目指す人事改革の結果だという指摘もされてきている 。またもともと成果主義がアンチテーゼとしている年功制に戻すべきという議論もある 。そこで、成果主義とはそもそもどんな発想で、何を狙っているのか、そのよりどころは突き詰めれば何だったのかということを改めて問い質す必要があると思われる。

成果主義が唱えられるようになったのは90年代半ば以降のことである 。成果主義は能力主義と区別され、成果や業績に基づいて処遇を決定しようとする考え方である。この点について、尾西(2001)は、成果主義の「根底には日本的経営の特徴である年功序列に対する激しい攻撃がある」こと、「横並び主義を排除し、格差を容認しようとする制度改革」が関連していると指摘している。年功序列ないし年功賃金に対する攻撃的批判が生じてきたのは中高年賃金について割高感があること、バブル入社組が管理職世代に近づきつつあり、その処遇が悩ましくなっていることが直接の起因である。格差をつけながら、おしなべて高くなりがちな賃金を平均的に抑制し引き下げつつ、貢献度の高い層には従来以上の処遇を提供したいという意図が各社にはある 。

能力主義とは組織の停滞によってポスト不足が顕著になり、たとえ職位に就かなくてもそれに準じた処遇をするというもので、一般に従業員には受け容れられやすいものだ。ここでは、能力主義の捉え方は楠田丘の見解に拠った。これに対して、能力主義の人事制度である職能資格制度もまた資本の論理による競争駆り立ての仕組みであるという指摘もあるが、ポストの代わりに安易に昇格させてきた職能資格制度は従業員には甘い制度であり、企業自身も高コストで維持できない仕組みとして認識しつつあると思う。なお、能力主義に関して、日経連の能力主義管理では年功に代わる職能によって賃金を決定すべきとされた。能力主義と成果主義に関しては深めた議論もあるが、ここでは従業員にとって同意しやすいかどうかという意味で両者が異なるという点だけ押さえておきたい。これに対して、成果主義は既に支給されている賃金水準を引き下げたり、ある年次になると、自然に昇給・昇格したところを厳格に運用して昇給抑制をするものである。ゆえに従業員受けするかといえばあまりしないと考えられる。

成果主義を経営側の視点で捉えれば、貢献度の低い従業員について応分の処遇とし、それによって人件費を抑制する取り組みである。企業業績が悪化している原因が1つには従業員の働きぶり/パフォーマンスにあるとすれば、それは業績に対して十分貢献できていない従業員が経営にインパクトを与えるほど増えてきているという現状認識に立つことになる。ゆえにそうした低業績の従業員にはより低い報酬とし、それによって高業績の従業員に相対的に報い、その士気向上を狙おうとしていると考えられている。

高業績を担っている従業員の目線に立てば、「これだけの業績を上げているのに報酬には返ってこないから、昇給なり賞与で早く還元してほしい」ということになるかもしれない。しかし、業績を上げられるかどうか、業績があることを見えやすいポジションにあるかどうかはもともと会社の配置した職域にもよるものだし、職務の性質にもよるだろう 。ゆえに目の前で高業績であることがすべてその従業員の働きによるとみなすことにはいささか無理があると思うし、逆に低業績もまたそのすべてを従業員の働きが不十分であるがゆえのものとは一概に言い切れないだろう。また高業績者が早くにリターンを求めるようになったのはそうした報酬の清算を長期で期待するほど会社に対して信頼が置けなくなったという背景もあると考えられる。近年では新卒者の早期離職が顕著に増えている が、長期的関係が持ちにくいという意識が従業員側にも高まってきているものと考えられる。

成果主義は、処遇格差を拡大することによって組織を活性化させ、組織構成員の職務満足を改善し、業績向上を目指す人事改革である 。ここで考えられているのは、①処遇格差を拡大すればモチベーションが高まる、②処遇格差を拡大すれば職務満足が高まる、③処遇格差の拡大を組織メンバーが望んでいる、④成果主義で各人のパフォーマンスが向上し企業業績も向上する、ということである。しかし、これらの前提条件が妥当なのか、検討してみる必要がある。

これらの点につき、オライリーとフェーファーは、サウスウエスト航空など高業績企業では処遇格差が比較的小さいと指摘している(オライリー他,2002)。つまり、処遇格差が高業績をもたらすわけではないことが確認されている。また処遇格差をつけるのは業績評価によって、である。このような業績評価の仕組みは必ずしも成功していないという報告もある。

労働政策研究・研修機構による調査(1998年)「1600名の管理職にみる仕事・組織の変化と部下の評価・育成調査」では、自社の人事評価制度に問題点があると感じている管理職は69.5%であり、「取り立てて問題点はないと思う」の23.2%を大きく上回っている。問題点があるとした管理職にどのような点が問題かと聞いたところ、「制度の運用が統一されていないために、部門間で不公平が生じている」、「評価基準があいまいなために、部下に対して評価結果を明確に説明できない」、「評価に中心化傾向があり、メリハリのきいた評価が行われていない」の3つに回答が集中している。評価者によるブレも問題である。5段階評価と仮定した場合、評価者が変わることによって、評価の結果が最大どの程度へ変わるかを尋ねたところ、「評価は変わらない」とした者は4.2%にすぎず、大多数は評価段階が変わると回答した。具体的には「1段階」変わるが58.6%、「2段階」が32.8%、「3段階以上」が3.7%となる。2段階変わるが約3分の1であるが、2段階ということは、平均的な「3」の人が最高の5になったり、最低の1になったりするということである。相当、大きな評価のブレがあることになる。

少なくとも今後、成果主義がモチベーションを高めるか、職務への満足感を高めるか、などの点は慎重に調査し検討してみる必要があると思われる。また処遇格差の拡大を組織のメンバーが望んでいるように喧伝されることがあるが、この点も疑問が多い。従来の年功的なモデル賃金を保証した上で、業績による報奨をもらえるなら、望むかもしれないが、モデル賃金を崩して処遇差をつけることを望むかは明らかではない 。

企業が成果主義による人事の運営を明確にした90年代後半以降、日本経団連の調査では新卒者の離職率が上昇している 。一般的な見地から言って、従業員のモチベーションが向上しているならば離職率は低減するはずである。大企業における離職率の上昇はモチベーションの低下を意味すると考えることができ、うがった見方をすれば、成果主義によるモチベーション低下という副作用、あるいは当然の帰結に企業は危機感を覚えてきたといえるのではないだろうか。少なくとも、成果主義でモチベーションが上がったという報告はなく、成果主義への多くの批判はモチベーションの低下を通じた業績の低下が問題にされている。


第4節 目標管理が失敗していく背景

成果主義を具体化した人事制度といえば、年俸制と目標管理である。一方が支払い方式であり、もう一方が評価制度である。年俸制とは年間に支払う予定の報酬額を予め決めて分割支給する方式であるが、統一的な制度形態は特にない。ただし、一般に企業が制度として導入している定昇織り込みの賃金表による昇給管理を離脱させ、個別管理するものを言うことが多い。定昇のある賃金表管理ではなく、一旦個別化し、年度ごと、場合によっては半期ごとにその間の個人実績と報酬をリンクさせるのである。その意味で「業績連動型賃金」と言ってよいだろう。

年俸制にはいくつかの特徴がある。まず①単年度の個人業績と報酬が連動するということ、ゆえに業績が下がれば報酬も下がるということ、また②移行時以降は定昇がないこと、ゆえに業績を上げない限り報酬は上がることがないこと、③年間の働きに対して報酬が払われるので、そのために従業員がどこまで働いたかは問われず裁量労働制が漠然と意識されていること、である。裁量労働制がなじむ職種は限定されるし、正式に採用するには関係官庁への届出なども必要である。しかし、年俸制によって時間外手当が削減され、それも経営上の効果と考えられることがある。また上司や同僚からの無言の圧力で超過勤務、サービス残業やつきあい残業などがあるため、実際には労働インプットもめいっぱいということにもなるが、このことも問題である。

年俸制が導入されると、それに対応した評価制度として目標管理が導入されることが多い。この場合の目標管理とは、期初に成果目標を設定し、なるべくそれを数値化し、その達成率を期末に評価し、本人の業績を評価する仕組みである。本来、目標管理は業績評価の制度という側面だけではないのだが 、成果主義の下では報酬方式としての年俸制と業績評価の仕組みとしての目標管理がセットになっている 。つまり、成果主義と目標管理は密接にして不可分と考えることができる。年俸は単年度の業績に対応しているが、その年度に本人が自らの選択で何を目標に定め、その顛末がどうだったのかを示す目標管理は年俸制になじみやすいのである。

目標管理については組織としての目標をブレークダウンしていく機能的側面と目標を設定し評価することで主体的な貢献を引き出そうとする参加的側面があるが、このうち人事制度としての目標管理は参加的側面を重視し、機能的側面を軽視しているという指摘がある(奥野,1998)。つまり、企業の多くは人事評価制度としての目標管理を導入し重視しており、組織目標の落とし込みや方針展開の手法としてはあまり活用していないのである。さらに言えば、目標管理では推進すべき方針や具体的な戦略が提示されるというより、獲得すべき成果を所与として各人が主体的にどう取り組み、いかにして実現するかが重視されているのである。端的に言えば、何をやるべきか、はっきりしてはいるが、どうやって達成するかはあまり組織側からサポートがなく個人単位で自ら考えないといけないのである。このような業績遂行における個人主義、言い換えると、組織からの責任転嫁が従業員を不安に陥れ、成果主義にあってはメンタルヘルス問題が浮上してくるのである。

成果主義がうまく行かないというとき、制度運営の面ではむしろ目標管理がうまく回せないという捉え方をすることがむしろ多い。なぜなら目標管理は成果主義的な人事制度運用の中心に位置し、評価制度と「話し合い」の仕組みとして位置付けられているからである。話し合いは融通にあるものではなく、部下である従業員を一層高い目標に向けて取り組ませることを合意させる話し合いである。これは話し合いというよりもある意味では強硬な押し付け、お仕着せであり、お互いの状況を合わせていくというものではない。何をやるべきか、どこまでやるかは一層高いバーにされる一方、どうやって達成するかは一任される。こうした「創造的問題解決」に直面し、メンタルヘルス問題が深刻化する。こうした中で、目標管理の運用に関しての調査を概観してみたい。

目標管理の導入について日経連の調査(「『新時代の日本的経営』についてのフォローアップ調査」1996年8月実施)によると、「目標管理を導入済み」と回答した企業が49.0%、「導入検討中または導入予定」とする企業が36.5%である。人事評価の見直しにあたって重要と思われる事項として、①評価基準の明確化、②業績評価重視、③目標管理制度の導入・徹底、と回答があった。つまり、企業は業績評価を重視し、そのための評価基準となる目標管理を導入し運用したいと考えているのである。しかしながら、目標管理の運用に関する企業の満足度はそう高いものではない。

労務行政研究所の目標管理制度に関するアンケート調査をみても、「制度がうまく運営できている」とした企業はわずか36%に留まり、6割の企業が「目標達成と処遇の関係があいまい」だと回答している 。また、産能大学の調査(「目標による管理」実態調査報告書,2000年9月実施)を見ても、『目標による管理』を推進する上でネックとなる項目について、管理監督者層の能力(54.9%)、成果の評価(53.2%)、目標設定(52.1%)、業績評価と処遇への反映(42.3%)、経営方針や戦略との連動(21.6%)が指摘されている。これら2つの調査を見ても、目標管理は業績評価の仕組みとして運用上の問題を多分に抱え、成功していると実感している企業はそう多くない。

目標管理は期初に行う目標の設定が難しく、職種や部門などの異なる者について成果評価の比較が難しい。また評価結果を処遇に反映させるときも困難となる。達成率が問われる以上、もとより到達しないような目標を設定することは従業員本人には納得しにくいことである。また人事考課の結果は上司による絶対評価であっても処遇に反映する際には相対評価の目線も不可欠である。そのため、達成率や成果到達度を異なる職種間でどう比較するかという問題を生じてしまうことになる。また達成率自体が適切な成果指標なのかという問題もあるが 、処遇切り下げを企業自身が目論むならギリギリのところで到達できない目標を設定し、部下に合意させないといけなくなるが、これは非常に難しいことだろう。半期なり1年なりに部下がギリギリのところで到達しないだろう目標を算定することは意外に難しいし、そういう意図が見え隠れすれば部下もやる気を失ってしまうだろう。

また貢献度と賃金の連動という点も問題になる。もともと年功的な傾斜があり、勤続年数の長い従業員について既に上がっている賃金が年俸制である場合、貢献度と賃金の関係が定率で関係付けることは困難となる 。仮にそれが相互に単純な関数関係にあるとするならば、貢献度が等しい場合、若年者層についてどこまで昇給させないといけないか、その一方で圧倒的に高い賃金水準となっている相対的な高齢者層をどこまで賃下げすればいいのか、悩ましくなるだろう。年功賃金を否定するなら、高齢者層・中高年管理職と同等の貢献度を示す若年者ははるかに高い報酬を直ちに手にすることを要求することになる。しかし、企業は年功的な処遇による賃金後払い方式を経済的メリットから撤廃したくないと考えることから、目標到達度と処遇の関係での「あいまいさ」を残さざるを得ない。そもそも年功による賃金には傾斜のついたカーブがあり、その傾斜は決して小さくないからである。


第5節 目標管理の背景にあるマネジメント「思想」と実態の乖離

目標管理に関しては広く米国の人事管理の実務に普及しており、おおむね定着している仕組みであるとするのが通説的理解となっている。そればかりか、米国ではおおむね成功している目標管理をうまく運用できない日本の企業組織には刷新すべき前近代的な風土があるなどの問題があるという認識は実務家にも広く蔓延している。曰く、従業員がもっと自律すべきであるとか、上司と部下が対等に話し合うべき土壌が必要であるとか、管理者のコミュニケーションスキルが十分でないといった指摘である。しかし、組織の風土は時間をかけて刷新すべき点は刷新すべきではあるが、そう短時日に変化させられるものではない。後述するように、米国礼賛型の多くの識者によってバラ色の新天地とされる米国でも目標管理については日本とほとんど同じような問題を生じているのである。

米国の目標管理が正しく紹介されたわけでもないし、変容し誤解されてきたという指摘もある。例えば、幾たびにもわたって理論的な紹介がなされてきたにもかかわらず、目標管理は「不況を打開する策」として企業に重用され、往々にして「ノルマ管理」の様相を帯びてきたという幸田(1989)の指摘がある。また目標管理は人間性尊重と業績向上重視を統合するものであり、「拝金主義にひた走った」企業の目標管理への取り組みは問題が多く、「資本主義の暴走」と言わざるを得ない状況があり、それは嘆かわしく、多くの目標管理がノルマ管理に流れているとする五十嵐英憲の指摘がある。さらに1960年代に注目された行動科学思想が誇張された形で日本の目標管理は理論的に形成されており、それ以降の組織行動や人事マネジメントの知見は日本の人事実務に十分に反映されていないこと、また米国とは全く異なる極めて中心的な位置を目標管理に与えてしまっていることが日本における人事管理上の大きな問題であるという五十嵐の指摘もある。

  目標管理の考え方は本来、個人の自発的な取り組みを尊重し、高圧的な指示命令関係ではなく、主体的で自律的な働きを促すという考え方である。目標管理の実務家として著名であるとされている五十嵐英憲は端的に本来の目標管理を「命令なき管理」だとしている。ノルマを与えるなどして通常以上に強く高圧的に命令するマネジメントは本末転倒で、目標管理と似ても似つかぬものだとしている。このようなマネジメント「思想」は典型的にはマクレガーの考え方(X理論Y理論)によるもので、そこに目標管理の思想的な支柱があると考えられている 。これに対して、排除すべき考え方はテイラーイズムであり、それはアメとムチによるマネジメントだと斬って捨てられている。

日本における「MBO」実践の先駆者とされる猿谷雅治は、「企業は、世の人々を幸せにするために、人間が考え出した組織の1つである。そして、企業とそこで働く人々は、お互いに協力して"共生"、すなわち"共にハッピー"の関係を築き上げなければならない。そのための実現手段としてMBOが存在する」としている。猿谷(2003)について五十嵐(1995)は、それは感動的な名著でありながら、このような考え方を理解しないことから企業の多くでMBOがうまく回らないと嘆いている。企業はMBOを導入するとき、手っ取り早く利益を生み、意欲を引き出して働かせることを性急に求めるというのである。まるで殴りつけながら、一方で笑っているような不気味で滑稽な二面性をそこに見るというと、言い過ぎであろうか。

実際の企業はコスト競争に追われ、現状抱えている従業員の多くについて余剰感を持ち、積極的に人員を削減している企業も少なくない。そんな中、企業は「幸せ」のための手段に過ぎない、共生すべきだ、ハッピーになれ、と主唱されても現実感がなく、実感が湧かないだろう。

例外があることは否定しないにしても、日本企業の大勢は到達すべき目標を数値的に明示し、それに向かって成員を駆り立てるノルマ管理として目標管理を運営してきたことは事実である。そのことは幸田の指摘にもある通りである。こうした「現象としての目標管理」を否定し、ありもしない理想論、空理空論を唱え続けてもそれはどこまでも徒労に過ぎない。五十嵐をはじめ、目標管理の主導者は実態の目標管理の多くが間違っていると指摘し、その修正を求める提言をしている。「成功する目標管理」など目標管理については多くが失敗しているという現状認識に立つ実務書が多い。目標管理の識者とされる奥野は業績評価として目標管理を運用するよりも全般管理システムとして運用すべきと強調する。いずれにしても、日米共にそうした運用の事例は歴史的にほとんど実在しなかった。

典型的には「命令なきマネジメントが理想である」と主張されつつ、その実、ノルマ管理が進行するところに、「理念としての目標管理」のガス抜き的な性格、機能を見ることができよう。つまり、理念と現実との表裏一体の関係をそこに見ることができ、人間尊重や個の重視という理想が現実の逆説として焦点化されるところに、目標管理の根本的な矛盾が存在していると言えるだろう。そもそも目標管理の理想はいつまでも実現されないのかもしれない。そしてマグレガーなどの理想的マネジメント論はいつまでも繰り返し人々の胸を打ち、この手法の導入について眩惑を起こさせるのかもしれない。そしてその導入は反対されにくい。

日本における目標管理について矛盾した状況があることを明らかにしてきた。しかし、それは米国式の人事管理制度を誤解し濫用した結果生じてきたのだろうか。いやむしろ日米で同様の問題を生じているのではなかろうか。この点につき、興味深い指摘がある。次節において展開したい。


第6節 米国における目標管理の位置づけから学ぶべきこと

米国における目標管理について、先に幸田一男の説にそって日本への移入を辿った。また目標管理の現況に関しては五十嵐英憲らの指摘を紹介した。ここでは、コーエンズとジェンキンズにより、米国における目標管理の展開を概観しておきたい。目標管理に関して次のように指摘されている。

MBOの考え方や目標主導型の業績評価は、ドラッカーによって創始され、マクレガーなどの後継者に支持され、人物特性(Traits)や行動といったあいまいで思いつき的な人物評価を代替する形で登場した 。明確な話し合いを実施し、測定された成果や結果によって評価するというやり方は、客観的で公平で科学的なものであるとして目標管理は注目されるものとなった。その後、シュレイによるMBR(結果による管理)が出てきて、1960年代から1970年代にかけて目標管理は大企業中心に幅広く業績評価の手法として普及した 。1980年代にはMBO導入はかなり進んだが、同時に疑問視され、見直しを余儀なくされるようになった。1つにはMBOは従業員の不満が多くモチベーターとして成功しないこと、もう1つには上司と部下が期待する成果やその証拠をお互いにでっち上げするようになったことがその原因である。

米国では広く目標管理が普及したのは事実だが、それは結果重視の業績評価の仕組みとしてであり、戦略の落とし込みや組織目標の展開といった点には重点は基本的になかったこと、80年代、つまり20年前には運用上の破綻を来たし、実務的に問題視されるようになったというのである。コーエンズらはさらに指摘している。

近年の業績評価制度は、業績を向上させ、時に方向性を調整する万能薬として個人の目標設定、つまり目標管理を織り込んでいる。業績評価シートの多くは、何らかの改善をしたか、目標を達成したか、を個人目標として記述させる形を採っている。MBOではない業績評価の仕組みとしては行動評価型や育成開発型があるが、その場合でもパフォーマンスについての弱みを記述させるような運用は結構多く定番となっている。目標管理では「目標は客観的で、狙いとする数字が示され、これによって評価すればパーソナリティやプロセスから生じる評価上のバイアスを取り除くことができ、率直で確固たる事実関係が得られる」と考えられている。しかし、こうした考え方には根本的に無理がある。なぜなら、次のような、いくつかの前提条件が必ずしも成立しないからである 。

《目標管理成立するための前提条件》

 ①目標達成によって好ましいパフォーマンスが得られる。
 ②個人の努力や取り組み、職務行動は目標達成に対して決定的な影響力を持っている。
 ③目標の達成はいつでも測定可能である。
 ④業績の評価や測定は正確に行うことができ、人的なバイアスや歪みは生じない。
 ⑤目標を与えられれば、人はその達成に向けて動機付けられる。

コーエンズらの指摘は日本における業績評価及び目標管理の問題点とも全く符合するもので大変興味深いが、とりわけ②の仮説、成果が個人の努力や職務行動によって必ずしも決定されないというものは重要である。取り組んでいる個人が懸命で、効果的な行動を取っていても、経営がうまく行っていないなら、それは成果にならないからである。一方、経営が成功している場合、一人くらい努力が足りないとしても、割り付けた範囲での成果は十分に得られることが少なくないからである。

業績と報酬を連動させようとする成果主義が成立する前提条件は、個人の努力や職務行動が短期間で見た個人単位での成果・業績と強く因果関係を持ち、多少の偶然や運がそこに介在するにせよ、かなりの程度連動しているということ、である。つまり、半年なり1年なり担当を持って活動すればその成果はその期末には十分現れてくるはずだ、と考えられているのである。もしそこが揺らぐなら、短期決済の成果主義は成り立ちにくく納得されにくいだろう。例えば、誰がやっても業績や成果が生まれたり、逆にどんな取り組みをしても業績や成果が出ないという場合、この前提は成り立たない。しかし、そこに無理にでも短期的な因果関係を見出さないわけにはいかないのである。ところが、この点は米国実務家にも疑問視され、妥当でない前提条件として指摘されている。つまり、米国実務でも目標管理型の業績評価は運用上破綻を来たし、異なる評価技法や人事管理手法が模索されているのである 。


第7節 今後の展望

日本における成果主義は曲がり角に来ている。それは経済政策の領域で新自由主義が綻びを見せることと軌を一にしている。企業業績が悪化すれば賃金原資を抑制したいと企業が考えることに無理はないのかもしれない。それは個々の労使関係によって話し合われるべきであろう。ただ、人間性尊重などなんとなく受け容れやすく拒否しにくい錦の旗を振りながら目標管理を導入し、実はいつのまにかなし崩し的に賃下げされていくというのでは従業員の大きな不満を残すことになるだろう。というのも、企業業績の悪化を従業員個々の働きぶりが不十分なための結果である、そこに重大な因果関係があると断言することにはそもそも無理があるからだ。このことは米国の比較的新しい実務家もその問題を指摘しているほどである。

目標管理は組織と個人の間に生じる「葛藤克服」の手法であるという五十嵐の指摘もある。しかし、見方を変えれば、個人と組織の間に生じてくる「葛藤」を、目標管理という上司と部下の話し合いの仕組みに一切合切委ねるという、責任不在の経営手法ということにもなりかねない。通常の取り組みをすれば収益が得られるビジネスの仕組みを作りもせず、十分な教育訓練を施すこともしないまま、各上司(現場のマネジャー)に成果を計上すべしという伝達とその結果について責任追及する話し合いを押し付けても、職場風土は荒廃するだけで成果は何も得られないだろう 。つまり、日本型目標管理の核心は、ノルマ管理という現実を否定する「理想」を鼓舞することで緊張を緩和し、さらに最終的には「納得」して諦めるしかないネガティブな話し合いを現場の管理者に「目標管理面談」という形で強要し実施させる点にある。

目標管理による業績評価が困難で成功しにくいことは米国の実務的展開を見ても明らかで、これに代わる人事考課の仕組みや人材管理の手法を考案すべき時期に来ている。米国ではすでに業績評価を語る際、結果重視の発想はあまり取らないし、取ってもセールスのような一部の職務に限っている。米国における業績評価は行動評価が中心となりつつあるし、日本でもコンピテンシーの紹介でその一部が変形して導入される事例も出てきている。

業績評価を考える場合、結果のみを見つめるのではなく、プロセスを重視し好ましい職務行動を促す評価制度であることが何よりも必要である。またあたら不安と焦燥感を増長し、チーム意識を損なうようなものでは、経営層の苛立ちを転嫁しているだけで、企業としての強みを発揮することは難しくなるであろう。また従業員の働きによって生じた成果を報酬に強く連動させるという発想がそもそも難しく、賃金とは労働市場なりによって決まる賃率と労働時間によって決まるもので、成果や業績によって決定可能な職域はそう多くないことを再認識すべきではないだろうか。

またパーソナリティに目を向けることは主観的であり、人的なバイアスを生じさせてしまうという見方もされてきた。確かにパーソナリティによって処遇を決定することは難しいだろうが、採用や配置などの人事上の決定では無視できない技法となっている。この点も再考すべきだろう 。

上司と部下の話し合いを重視し、多くの矛盾や葛藤をそこで解消してしまおうという発想を排し、全社的な観点で公平性をより確保できる評価や育成の仕組みを考えていく必要がろう。またいつ雇用が失われるかもしれないという不安を抱え、上司や同僚すら親身には自分を思いやることなく、日々を過ごす状況をどこかで考え直さないと、企業自身が活力を維持できない懸念がある。従業員が組織内に留まらないことも含め、キャリア・プランを親身に考える仕組み、あるいは一歩進んで労働者が企業に依存せずに人生やキャリアを考える仕組みが必要となるだろう。

今日、米国では結果重視の目標管理型業績評価を廃して行動尺度を使った業績評価に代替する動きもある。このような尺度を用いても上司が評価する限り、甘辛はなくならないし、そうした評価システムを作り出すこと自体、膨大な作業を必要とする。ただ、多面評価を実施すると、本人と上司の評価の乖離が明らかになったり、上司が他の評価者と比較して甘く/厳しく評価することが明らかになるというメリットもある。少なくとも今日多くの企業が行っている目標管理という評価手法が先行する米国でも日本と同じような問題を生じて破綻しているという認識を再度確認して、人事管理のあり方を再考する必要があるだろう。
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